第一線で活躍するヒーローたちの「仕事」「挑戦」への思いをつづる
Vol.145作家 絲山秋子
自分の得意を信用しない
Heroes File Vol.145
掲載日:2016/3/3
10年余りに及ぶ会社員生活を経て2003年に「イッツ・オンリー・トーク」で文學界新人賞を受賞して作家デビュー。以後、立て続けに作品を発表し、多作の作家として知られる絲山秋子さん。やる気が先走っているのではなくとにかく「書かざるを得ない」という感覚に突き動かされ、書き続けているのだという。
Profile
いとやま・あきこ 1966年東京都生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、住宅設備機器メーカーに入社し、2001年に退社。03年「イッツ・オンリー・トーク」で文學界新人賞を受賞し作家デビュー。06年『沖で待つ』で芥川賞を受賞。『袋小路の男』『ばかもの』『妻の超然』『離陸』ほか著書多数。新刊に『薄情』『小松とうさちゃん』などがある。
地方暮らしだから書けた小説『薄情』
東京出身でありながら、群馬県高崎市を活動拠点にしている作家の絲山さん。新刊『薄情』はその群馬を舞台にした物語だ。何事にも熱くなれず、幾つかの職を転々としている青年が、地元の人や移住者とのかかわりによって自分の内面を見つめ直し、一つの答えにたどり着くまでの1年半を描いている。
「よそ者である私が、群馬で生まれ育った人の立場で書いた小説です。主人公の静生は自己表現が決してうまくない。地元から外に出ていないことに敗北感があったり、他者への深入りを避けていたり。そんなどこにでもいる青年の微妙な心の移り変わりに共感し、楽しんでもらえたらと思います」
地方都市には学ぶことがたくさんあるという。群馬だけでなく、さまざまな地方都市の良さを感じてもらえるような小説をもっと書きたい――。そう語る絲山さんの原点は、10年余りに及ぶ会社員時代にあった。
「得意」より、「苦手」の克服のほうが喜びも倍増
大学卒業後、住宅設備機器メーカーへ就職。システムキッチンやユニットバスなどの提案型営業に従事した。
「結果が数字で明確に分かる営業の仕事が気に入っていました。もともと作戦を練るのが好きな性格。売り上げが伸びなければ、今度はこんなふうに工夫してみよう、やり方を変えてみようと考え、それを実践して結果につなげていけるのが楽しかったですね」
苦手な得意先もあったが、そういう相手にこそ積極的に営業した。すると意外にファンになってくれ、継続受注につながることも多かったそうだ。
「反対に得意なタイプのお客さんには全然売れなかったり。でも、得意なことより苦手を克服できたほうが断然喜びも大きい。自分の得意とすることを信用せず、苦手でもまずやってみることが大事なんだと学びました。だから迷った時ほど苦手を選びますね」
総合職だったので福岡、名古屋、高崎などへの転勤も経験。それが地方都市の魅力に目覚めるきっかけとなった。
「最初は不安で戸惑いもあるのですが、実際に住んでみると町それぞれが持つ考え方や文化、価値観が分かってきます。次第に私自身がその町の人に似てくる感覚もあって、そういうことを発見するのが楽しかったですね」
転機が訪れたのは入社10年目。病気で入院することになってしまった時のことだ。それまで小説家になりたいと思ったことはなかったが、暇に飽かせて小説を書き出したら自分でも驚くほど楽しくて止まらなくなっていたという。
2年間の休職を経て退職。絲山さんは小説の執筆に専念すると決めた。
ただ書きたかった
「書かざるを得ないという感覚に突き動かされていたような感じです。描きたい小説が次々に浮かんできて、ただそれを書きたかった」
会社を辞めてから2年間、時折アルバイトをしながらひたすら書き続けた絲山さん。そして「作品が完成する度にいろんな文学賞の新人賞に応募するのですが、1次予選すら通過しませんでした」。
その流れを打ち破ったのが小説「イッツ・オンリー・トーク」だ。同作で2003年の文學界新人賞を獲得し、見事、作家デビューを飾ったのである。しかもその直後から立て続けに各文学賞に輝き、デビュー3年目に『沖で待つ』で芥川賞を受賞。異例の早さで純文学作家としての地位を手に入れた。
「それでもまだ小説家でやっていけるとは思えなかった。ただ、自分がバイトをしながら小説を書けるタイプではないなと分かったので、収入を得るためにも書きまくるしかないなとは思いましたね」
前作を書き切ることが次回作を生み出す力に
デビュー以降、絲山さんが意識してきたのは常に前作とは違うものを書くということ。そんななか、更に自らのハードルを高くし、挑戦したのが短編集『ニート』に収録されている「愛なんかいらねー」だ。
「どうしようもない不愉快な男が主人公で、人の反応を気にしていたら書けなかった小説です。でもこれを書き切った力があったからこそ、それ以降の作品がより力強く、説得力を増しました。時には自分の限界メーターを振り切るほどの挑戦をしてみることが、自らの力を引き上げるのですね」
そんな絲山さんに小説のテーマはどのようにして決めるのかと尋ねると、「降りてくるんです」と言い切った。
「どんなにスランプの時期でも降りてこないことはないんです。ただ、大事なのは降りてきた瞬間にがっちりとつかむこと。例えば電話も、かかってきた時に出ないと二度目はないかもしれない。ほかのことに気を取られてその瞬間を逃さないようにしないと、と思います」
それはチャンスのつかみ方にも言えることだ。ただし、チャンスを得るためには何かを手放す勇気も大切だと絲山さんは言葉を添える。「一つ手放すと必ず次が入ってきます。でもそんな時に未練があると次が見えなくなりますから」
ところでこの取材の前、あいさつ回りのため都内の書店2軒に立ち寄ってきたという。
「本が売れないと嘆く前に作家自身が動かなければと思って。長く営業職をやっていた強みで現場を見るのが好きなんです(笑)。もちろん、顔を出しただけで売れるほど世の中は甘くない。でも、そこから始まることが必ずあると思いますね」
ヒーローへの3つの質問
現在の仕事についていなければ、どんな仕事についていたでしょうか?
前職の住宅設備機器メーカーで担当した中では、増改築の仕事が印象に強く残っています。増改築は難しさもありますが、住環境を良くするし、生活を前より快適にするものです。何よりお客さんが、夢がかなって喜んでくれます。年齢や経験も生かせる仕事だと思います。
人生に影響を与えた本は何ですか?
ル・クレジオの小説『調書』。中学生のころから数え切れないほど繰り返し読んでいます。原書だけで2冊持っている。小説ってこんなに自由でいいのだと私に教えてくれました。
あなたの「勝負●●」は何ですか?
新幹線の中で過ごす時間です。自宅のある群馬から東京までの移動中、本を読んだりラジオを聴いたり、時には友達に手紙を書いたり。限られた空間と時間を使って、自由を楽しむことでリラックスでき、「よし!」って、気持ちも駆り立てられます。
Infomation
新刊『薄情』が好評発売中
境界とは何か、よそ者とは? 土地に寄り添い紡がれた迫真のドラマ——。地方都市に暮らす宇田川静生は、他者への深入りを避けて日々をやり過ごしてきた。しかし、高校時代の後輩女子・蜂須賀との再会や、東京から移住してきた“よそ者”の木工職人・鹿谷さんとの交流を通し、次第に考えを改めていく。そんなある日、決定的な事件が起きる……。季節の移り変わりと共に揺れ動く内面。社会の本質に迫る、滋味豊かな長編傑作だ。発売:2015年12月18日、発刊:新潮社、価格:1,500円(税別)。