
第一線で活躍するヒーローたちの「仕事」「挑戦」への思いをつづる
Vol.70元プロサッカー選手 宮本恒靖
自分の存在意義を知る
Heroes File Vol.70
掲載日:2012/3/2

2011年の末に引退した、元プロサッカー選手の宮本恒靖さん。日本代表チームやJリーグの所属チームのキャプテンとして、また、常に冷徹な判断力が求められるディフェンダーとして、重責を担い続けてきたサッカー人生のなかで、宮本さんが得たものとは?
Profile
みやもと・つねやす 1977年大阪府生まれ。同志社大学経済学部に進学しつつ、1995年にガンバ大阪でプロ選手となりJリーグ初出場。2002年日韓大会に主将として出場しベスト16入り。2005年ガンバ大阪でJリーグ年間初優勝。2007年オーストリアのレッドブル・ザルツブルクへ移籍。2009年からヴィッセル神戸に所属し、2011年末に現役引退。
中学時代から始まったキャプテン人生
2011年末、宮本恒靖さんは約17年間に及ぶサッカー現役生活にピリオドを打った。日本代表で2度主将としてチームを率い、ガンバ大阪でも主将として優勝に導いた。頭脳的なディフェンダーの姿と共に主将としての顔も印象的だ。現在はFIFAが運営する大学院への進学準備中と、すでに彼の新しい挑戦は始まっている。
サッカーを始めたのは小学4年の時。テレビで見たマラドーナ選手のプレーに魅了され、ソフトボールからサッカーに転向した。スポーツに熱中しつつ、どこか冷静さの捨て切れぬ子どもだったという。
「鍵っ子のせいか何事も自分で考える癖がついて。うまく説明できませんが、小6の頃から自身を遠くから見る自分の声が聞こえてくるようになった。これが常に一歩引いて考える自分の基礎になりましたね」
中学3年時には部活動の主将と生徒会長を務める。
「キャプテンマークをつけられるのがうれしくて、飽きずに続けられるよう練習メニューを工夫しました。この頃から次の目標を考えることがモチベーションになった。例えば関西代表になれても日本代表には選ばれなかった時、友人が関西代表はすごいと言ってくれても、僕は次に行ける方法を考えていた」
自分の強みを考え自信をつけてエネルギーに

高校は進学校へ入学。サッカーは、「この人」と思うコーチのいるガンバ大阪のユースチームで、プレーだけでなくサッカーそのものや戦術を学んだ。文武両道を貫き、卒業後はガンバ大阪でプロになると同時に、同志社大学に進学。しかし、チームでは試合出場はおろかポジションさえ定まらなかった。
「この時が最もつらかったですね。確固たる自分の道が見つけられず不安でした。一方でU-20の代表チームに招集され、その主将となって世界大会を戦うことになった。これはすごく名誉でした。それに主将は、監督の戦術を理解し選手に伝えて選手と監督との橋渡しをしたり、メディアにチーム代表でコメントを出したり、いろいろな役目がある。日本代表の主将としてプレーすることに自分の存在意義を見いだし、それは所属チームに戻った時の活力になりました」
その後、ガンバ大阪でも23歳で主将となり、2002年日韓大会でも代表チームのキャプテンに。しかし直前に鼻を骨折。彼は黒くマジックで塗ったフェースガードをつけて試合に出場した。この姿は世界中で「バットマン」と呼ばれ、彼のディフェンダーとしてのプレーが注目されるきっかけとなる。だが試合は、グループリーグを突破し日本中で期待が高まる中、トルコに悔しい敗北を喫した。
自分を奮い立たせるためいつも難関に挑戦する
日韓大会への出場で宮本恒靖さんのプロとしての心構えは大きく変わった。
「日本で盛り上がったサッカーの人気をJリーグにつなげる責任。そして何より、4年後のドイツ大会にもう一度出たいと思った。そのためにプレーヤーとして、より高みを目指し、人をまとめることで代表チームの中心になり、自分の強みを出そうと考えました」
大きなモチベーションを胸に、2005年には2度主将を務めたガンバ大阪をリーグ初優勝に導き、ドイツ大会でも再び主将として参加。「前回より上へ!」の強い思いで臨んだが、前回の成績にも届かず1次リーグで敗退する。
「4年間の目標が破れた、その敗戦のショックは大きかったです。同時に世界の厳しさを改めて知った。どう立て直していいか分からないほどバーンアウトしてしまいましたね。そこで自らを奮い立たせるために海外移籍を決めました。29歳、挑戦するなら最後だと思ったんです」
翌年オーストリアのチームに移籍。いろんな国の人が集うチームと、ドイツ語圏の生活への戸惑いは大きかった。
「日本と同様、自分の存在を認めてもらおうという気持ちでやりました。それは想像以上にパワーのいることだけど、いろいろな環境や試練を受け入れることで柔軟性を得たと思います。海外に出て日本が極東の島国だと自覚し、その長所短所が見えたこともよかった。向こうの人はすごくシンプルに生きている。周りを気にせず自分が大事なものを大事にする。生きる上で大切なことを教えてもらった気がします」
長く主将の重責を担い得られたこと

帰国後はヴィッセル神戸に主将として加入。若い選手が多い新しいチームにプレーで貢献するだけでなく、自分が培ってきたことを伝えることに力を注いだ。そして契約が終わる昨年末、34歳で引退を決めた。主将の重責を担うことが多かったサッカー人生は彼にどんな影響を与えたのか。
「主将として人に物を言うなら、まず自分がきちんとしないといけない。もともと一歩引いて考えるタイプでしたが、より観察能力が磨かれ人として成長できましたね。また、常に次の目標に向かってやってきたことで、自分の足りない部分が見え、クリアするための努力を覚えた。何よりサッカーをしていなければ、様々な感情の爆発を経験できなかったですし。そんなスポーツの素晴らしさを人に伝えていきたい。まずFIFAの大学院で経営からマネジメントに至るまでスポーツ学を学び、自分に何ができるのかを考えます。今後の人生の方が長いのでしっかりやっていきたいですね」
ヒーローへの3つの質問

現在の仕事についていなければ、どんな仕事についていたでしょうか?
何かはわかりませんが、世界を舞台に活動できる仕事を希望していたと思います。中学の時、社会科の先生にこれからは世界を相手にしないといけないと言われた影響で、その頃から国際的な仕事をしたいという気持ちがありました。
人生に影響を与えた本は何ですか?
映画ですが、「いまを生きる」(ピーター・ウィアー監督作)です。何よりも、今この一瞬を生きることが大事だという、タイトルのフレーズが印象的です。自分の座右の銘である「Seize the day」はこの映画から引用させてもらってます。
あなたの「勝負●●」は何ですか?
あまりそういったことを意識しないようにしていますが、僕は物事に対してとても準備をしますね。練習前には、ストレッチも自転車のウォームアップもすませて体をあたためたり。欧米の選手などは、練習の前は雑談して、練習でもメリハリをつけてここ一番という時に力を発揮するタイプが多いし、人によって違いますが、僕はけが予防の面でも、徹底的に準備するタイプです。ただ準備のし過ぎはだめなんです、ほどほどに(笑)
Infomation
宮本恒靖さんが主催するミヤモト・フットボール・アカデミー
宮本恒靖さんが主催するサッカー教室が、自身がプロデュースしたフットサル場MIYAMOTO FUTSAL PARK(マルイ錦糸町および日比谷シティ)で開催されている。クラスはU-12、U-10、U-8、U-6と小学生がメイン対象だが、大人や女性、初心者向けのクリニックも開催中。少人数制でサッカーだけでなく心の指導も行う。「僕自身、子供の頃に足が速かったことが自信になり、ほかのことにも積極的に取り組めた。お子さんのそういうきっかけが作れる場所になったらいいなと思います」(宮本さん)
MIYAMOTO FUTSAL PARK マルイ錦糸町/日比谷シティ
問い合わせ/03-3846-9717(錦糸町)、03-3501-4717(日比谷)
公式サイト/http://www.miyamoto-futsal.com