狭山市とは、入間川と16号線を挟んで両脇に広がる地域が狭山市です。 鎌倉街道、奥州街道が交わる地域で、昔から北への交通の要でした。
狭山市は、川越市、入間市、日高市、所沢市、飯能市に囲まれていますが、この一帯全てが、朝鮮半島の高句麗から来た人々によって開拓された場所でもあり、以前は高麗郡と呼ばれていました。 その為、この一帯には、飯能を始め、高麗、吾野、越生など朝鮮半島の名前と思われる地名が多く残っています。
そんな事から先ず、この一帯が未開の地であった頃から振り返って見たいと思います。
西暦645年の中大兄皇子と藤原の鎌足によって起こされた大化の改新が、日本国家としての形を成した頃と言われていますが、それから20年あまり後、中大兄皇子が天智天皇となった頃です。 朝鮮半島は、高句麗、百済、新羅の3つ国に分かれてお互い戦っていました。 その時代、高句麗より我が国に助けを求め、使節団が訪れていたのですが、その間に高句麗は滅ぼされ国がなくなってしまいました。
そこで、若光を中心に、当時日本にいた高句麗の人々や難民として逃げて来た高句麗の人々を受け入れ、未開の地、関東のこの一帯に土地を与え住まわせる事にしました。 これが、この一帯の開拓の始まりとなります。
高句麗の人々は、この一帯を開拓し、この一帯全てを高麗郡として生活を営んで現在に至っていますが、その間、戦国時代など、関東の武将の多くがそうであったように、周りの多くの力の強い、北条、武田、上杉などの顔色をうかがいながら、あっちに味方したり、こっちに味方したりと戦いを続けますが、次々と滅ぼされる中、生き残り、末裔が今でも、日高市に住まわれていて、若王を神として祭る高麗神社の歴代の官職となられています。 一方、元々一体だったのですが、明治の神仏分離令により、高麗神社から分かれた聖天院は、若光一族の菩提寺となるだけで無く、多くの在日の人たちのお寺にもなっています。なかなか素敵なお寺であり、一見の価値があります。