第一線で活躍するヒーローたちの「仕事」「挑戦」への思いをつづる
Vol.9ミュージシャン 斉藤和義
思い込みだけで走った
Heroes File Vol.9
掲載日:2009/9/11
この9月に13枚目のアルバム「月が昇れば」をリリースする斉藤和義さん。ギターに魅せられた少年がプロのミュージシャンになり、自分の音楽を確立していくその道のりと、40代になって変わってきたことなどをざっくばらんに語ってもらった。
Profile
さいとう・かずよし 1966年栃木県生まれ。少年時代からギターにはまり、音楽を志す。オーディション番組で5週連続勝ち抜き、「僕の見たビートルズはTVの中」でデビュー。ライブを中心に活動。2008年には「やぁ無情」で日本レコード大賞優秀作品賞受賞。9月16日に13枚目のアルバム「月が昇れば」をリリース。
音楽の道を目指し上京すると同時に失恋する多難なスタート
飄々(ひょうひょう)とした雰囲気から想像もつかないほど情熱的に歌う、「歌うたい」斉藤和義さん。歌う時に常に抱えているギター、その出会いは小学5年生にさかのぼる。「姉と妹に挟まれ、なよなよした子供でした。本格的にギターにはまったのは中学時代。野球部の練習が厳しい上、球拾いばかりでやめたかったのに監督が怖くて言えず。その逃避からギターにのめり込み、部活の後、毎日友人と弾いては将来ギタリストになろう、と」
高校時代はヘビメタバンドを組みギターの早弾きが命。とりあえず大学でバンドを組もうと進学したが、気の合う仲間もおらず2年で中退し地元に戻る。しかし音楽への道に迷いはなく、友人と東京でやることに。
「上京して住んだのがものすごいボロアパート。天井板がベコベコでネズミやゴキブリもたくさんいた。引っ越しを手伝いにきてくれた当時の彼女がそれを見て引いてしまって。『夢を追うのもいいけど、私はついていけない』とその場で別れを宣告されました。いきなり失恋し、俺(おれ)は東京に何しにきたんだろうとへこみましたよ」
最初はろくに音楽活動をせずバイトばかり。スーパーの総菜売り場などに勤めては辞めての繰り返し。友人との音楽活動はうまくいかず、結局一人でやることになった。25歳までは好きにさせてと親にいいながらも、曲はそれほど作らず、デモテープをレコード会社に送ることもなく、たまにライブで友人の前で歌うだけの日々。何もしていないから当然なのに、「どうしてみんな俺の存在に気がつかないのか不思議で(笑い)。若さゆえの思い込みだけで、自分は必ずミュージシャンになる、と」。そんな彼にも焦りはあった。二十三、四になると、音楽仲間が一人二人とあきらめて地元に帰っていく。
姉との売り言葉に買い言葉でオーディション番組に応募
「その単純な寂しさと、みんな音楽なしで生きられるのかと不安になったり。そんなことを考えているうちに、約束した25歳も過ぎ、やばいなと感じるようになりました」
時はイカ天ブームが終わった頃。何の勝負にも出ない彼に姉が「あんたは出る勇気がないだけ」と言い、「違う!」と売り言葉に買い言葉でオーディション番組に応募する。
「5週連続で勝ち抜くうちに、レコード会社からいくつも声がかかり、それまで友人5人ぐらいしか来なかったライブハウスが満杯になった。そういう変化にも『ようやく俺に気がついたか、遅いよ!』と当然の気分でした。だから27歳でデビューした時も、CDが100万枚ぐらい売れて街も歩けなくなっちゃうと妄想してたのに、実際は静かでしたね(笑い)。一瞬打ちのめされましたが、時間がかかると分かり、焦らずやっていこうと切り替えられたのはよかった」
当時はアコースティックギターにハーモニカスタンドを装着しての弾き語りというスタイルで、フォークと誤解されるのが彼の悩みだった。「自分は弾き語りでロックをやっているのに、デビューのキャッチフレーズが『四畳半じゃ狭すぎる』。だから違うって、とイライラしてましたね。また、シングルが3カ月に1回出ることも、曲が使い捨てみたいでかわいそうでした」
CDのジャケットや、アレンジされた曲の仕上がりも自分の音楽世界と何かが違うと違和感を抱きイライラを募らせていった。
募っていたイライラ。自分の行動でその突破口を開く
デビュー以来、自分の音楽世界がうまく伝わっていないフラストレーションが最高潮に達した時、斉藤さんは自ら突破口を開いた。5枚目のアルバム「ジレンマ」で、プロデュースからジャケットのイメージまで主導し、作詞作曲はもちろん自分がさまざまな楽器を演奏して一人多重録音で制作する。
「それまでのアルバムで、自分が弾き語りでやっていた曲をプロのスタジオミュージシャンが上手に演奏していて、商品化されちゃったな、みたいな歯がゆさがあって。俺(おれ)の中ではむしろ演奏は下手でよく、自分が作ったデモテープの方がテープのノイズも合わせて自分の音楽として完成していた気がしていた。だから今回は自分が責任をとるから全部一人でやらせてくださいとお願いしたら、売り上げが今までで一番よかったから『ほらね』という感じで(笑い)。でも前のことを否定するつもりはなく、少しずつ一人で多重録音の曲も試し、スタッフやミュージシャンにいろんなことを教えてもらった日々が修業期間だったと思います」
その後、順調に活動してきた斉藤さんだがデビュー10年目に十二指腸潰瘍(かいよう)に倒れる。
「事務所から独立し、煩雑な事務作業とアルバム作りが重なりものすごいストレスだったようです。健康には自信があったので、体より心が痛かったですね。入院中は何もかも面倒くさくなり、音楽活動も全部やめようかと分刻みで揺れていました」
そんな彼を再びやる気にさせたのは、療養後、平川地一丁目という兄弟デュオのプロデュースの依頼を受けたこと。まだ小中学生だった彼らが単純に歌作りを楽しむ姿が新鮮だった。また、夏のライブイベントに弾き語りで出た時、観客の反応がよく「やっぱり自分にはこれしかない」と思い直す。
40代になってラクになった。柔軟にいろいろなことに挑戦中
自信を得た彼は、それまでの曲をほぼ網羅する弾き語りツアーを行い、日本武道館での弾き語りライブで完結させる。
「この頃から自分がやりたい音楽と、人が聴きたい斉藤の音楽が一致した手応えが出てきた。また40代になってラクになりましたね。どうせオッサンだし(笑い)、変にカッコつける必要がなくなり無駄な力が抜けた。今まで自分がかたくなに嫌だと言っていたことも、やってみないと分からないと思うようになったんです。人の歌詞に曲をつけたら新鮮だったり、人の曲をカバーし、たとえば阿久悠さんの『ダーリング』を歌った時も、3分ちょっとの曲でショートムービーを見たような世界を感じられ、俺もこういう音楽を作りたい!などと、自分の音楽作りに幅が出た気がしました」
今回リリースするアルバム「月が昇れば」では、これまではどちらかと言うと社会の傍観者だった彼の姿勢に変化を感じる。
「敬愛する忌野清志郎さんが亡くなったことでいろいろ考えました。彼も40歳を過ぎて、唐突に夢を持とうとかラブ&ピースとか言い出した。俺も40歳を過ぎて、そういうことを口にすることに照れがなくなってきたので、積極的でなくともやっぱりラブ&ピースがいいとの思いを歌に託せると思った。いずれにせよ、俺にはギターを弾いて歌っていくことしかできないんで、これからも折々の自分の思いや愚痴のようなものを曲に託し、ライブで歌っていきたいと思います」
ヒーローへの3つの質問
現在の仕事についていなければ、どんな仕事についていたでしょうか?
何にもなれていないでしょう。ホームレスになっていたかもしれません。俺、今の仕事のほかは絶対何もできないと思いますよ。
人生に影響を与えた本は何ですか?
最近あまり本は読まないんだけど、大学時代に悩んでいた時に太宰治の「もの思う葦」を読んだのが印象に残っています。
あなたの「勝負●●」は何ですか?
「勝負ギター」。何十本ものギターを持っていて、ライブや録音作業の時にたくさん持ち込みますが、実際に使って弾く本命は決まっています。それが勝負ギター。あとは浮気相手みたいなもんで(笑い)。
Infomation
9月16日に13枚目のアルバムをリリース!
2年ぶりにリリースされる「月が昇れば」は、40代となり数年たった斉藤和義さんの今がつめこまれている。アリナミンのCMソングで、日本レコード大賞優秀作品賞を受賞した「やぁ無情」、伊坂幸太郎原作の映画「フィッシュストーリー」のエンディングテーマ「Summer Days」、そして、先日亡くなった忌野清志郎さんへの思いを歌詞に綴った「Phoenix」など全12曲。詳細は公式サイトをご覧ください。
http://kazuyoshi-saito.com
「月が昇れば」
定価/¥3,150(税込)
発売元/スピードスターレコーズ